堺市博物館を見た後は池上曽根遺跡に向かいました。
ここは弥生時代の環濠集落として問われる遺跡ですが、年輪年代測定法のエピソードが有名です。もともとこの遺跡は、出土した弥生土器の特徴からいつごろのものかが推定されていました。ところが1985年に大型建物跡が見つかると、その推定が間違いだったことがわかってしまいました。というのは建物に使われた柱の中に良い状態のものがあり、年輪年代測定法でその伐採年が紀元前52年だと判明したからです。これはそれまで推定されいていた時期よりも100年も古いものでした。このため弥生時代の土器編年を見直さなければならなくなったのです。遺跡に隣接する大阪府立弥生文化博物館にはその柱のレプリカが展示されていました。
ところでここの博物館は「弥生文化」と限定しているだけあって、水稲耕作についてわかりやすく展示していました。
木製農具の木鍬(きくわ)が触れるようになっていました。想像以上に堅い木でできており、簡単に折れることはなさそうでした。といってもひびが入ってしまったようでテープで補修してありますね。
こちらは木鋤(きすき)です。まるでスコップですね。
田植えの様子がよくわかるジオラマです。
現在とはちがって稲が実る時期にバラツキがあったため、実ったものから穂首刈りしていったようです。
左の二人は脱穀(だっこく)をしています。稲穂を木臼(きうす)に入れて、竪杵(たてぎね)でつくと白いお米になります。右は箕を使って籾殻を風で飛ばしている様子です。
なかなかの充実ぶりですが、湿田と乾田についての説明がまったくありませんでした。前々から疑問に思っていたこともあり、学芸員に来てもらって直接お話を聞くことにしました。すると思わぬ答えが返ってきました。要点だけ言えば、田んぼの水位は上下するため、現在は湿田と乾田の違いを言わないそうなのです。水がゆきわたりやすい低地から水田が開発されていき、灌漑技術が高まるにつれて高地でも水田が開かれていったようです。なるほど、教科書や入試は古い学説のまま出題しつづけているわけですね。はからずもこんなところで「入試は入試」と割り切る必要性を再認識することになりました。
学芸員の中尾さん、丁寧なご説明をありがとうございました。