先日、某予備校の日本史講師の方から、
福岡大学の入試問題の出題ミスについてのメールをいただきました。
なんでも福岡大学に出題ミスを指摘されたそうです。
まずは、問題とそのミスについての指摘をご覧ください。
【指摘箇所1】
次の文章を読み、空欄(1~11)に入るもっとも適当な語句を〔語群a〕から、また、その選んだ語句にもっとも関係が深い語句を〔語群b〕から、ひとつずつ選んで、解答欄にその番号を記入せよ。
頼朝の死後、若い( 7 )が後継者となるが、廃されて伊豆の修禅寺で謀殺された。
〔語群a〕1源実朝 2源頼家 3源義経 4源義家
〔語群b〕1朝廷と交渉して、東国の支配権を獲得した。
2万葉調の清新な秀歌をのこした。
3将軍の親裁が停止され、有力御家人の合議体制がとられた。
4東北地方の豪族の同族対立に介入し、内紛を平定した。
【指摘内容】
源頼家の親裁が停止され、13人の合議制が始まったのは1199年4月です。当時、頼家は源氏の家督を継ぎ、鎌倉殿となっていましたが、この時期は将軍空位の時期にあたります。頼家が将軍に就任したのは、合議制開始から3年以上経った1202年7月です。
したがって、〔語群b〕3の「将軍の親裁が停止され」は、「源氏家督の親裁が停止され」または「鎌倉殿の親裁が停止され」の誤りであり、〔語群b〕には正解が存在しないことになります。また、鎌倉殿と征夷大将軍は同一ではなく、明確に区別されています。
現在高校で使用されている検定教科書にも「将軍の親裁」とは記されていません。下記は高校教科書『詳説日本史』(山川出版社)掲載の略年表に加筆した頼朝死去直後の時代経過です。
1199年1月 源頼朝死去。頼家が家督を相続。
1199年4月 頼家の親裁が制限され、13人の合議制。
1202年7月 頼家、征夷大将軍に就任。
【指摘箇所2】
次の文章を読み、それぞれにもっとも関係が深い語句を〔語群a〕からひとつ選び、さらにその選んだ語句ともっとも関係が深い語句を〔語群b〕からひとつ選んで、解答欄にそれぞれ番号を記入せよ。
東大寺に現存する奈良時代の建物で、校倉造と呼ばれる断面が三角形の木材を井桁状に積み上げた、高床式の構造となっている。また東大寺がシルクロードの終着点と呼ばれるのは、この建物の収蔵品によるところが大きい。
〔語群a〕1正倉院宝庫 2法華堂(三月堂)
3南大門 4大仏殿
〔語群b〕1螺鈿紫檀五弦琵琶 2過去現在絵因果経
3玉虫厨子 4八角灯籠
【指摘内容】
〔語群a〕は1正倉院宝庫を正解として適切です。しかし、〔語群b〕1 螺鈿紫檀五弦琵琶は誤字です。正しくは「螺鈿紫檀五絃琵琶」です。高校教科書『詳説日本史』(山川出版社)などにも、「螺鈿紫檀五絃琵琶」と表記されています。
【指摘箇所3】
次の文章を読み、空欄(1~11)にもっとも適当な語句を語群の中からひとつ選び、その番号を解答欄に記入せよ。
3代将軍家光の死後、家綱の将軍就任直後に起こった( 9 )による慶安の変は、 牢人(浪人)の増大が治安悪化の原因となることを幕府に認識された。
〔語群〕47 由井正雪
【指摘内容】
由井正雪らによる慶安の変は、家綱の将軍就任前に起こりました。したがって文章Dの「家綱の将軍就任直後に起こった」は史実に反する表現であり、直後にかかる( 9 )には正解たる語句が存在しません。明らかな出題ミスです。下記は慶安の変前後の略年表です。
1651年4月 徳川家光死去。直後に由比正雪らが幕府転覆、浪人救済を企てる。
1651年7月 奥村八左衛門の密告により計画が露見。由比正雪ら自害。
1651年8月 徳川家綱、征夷大将軍に就任。
【指摘箇所4】
次の文章を読み、設問(1~11)の答えとしてもっとも適当な語句を語群の中からひとつ選び、その番号を解答欄に記入せよ。
狩野派は、室町幕府の御用絵師として登用された狩野正信が最初で、そのひ孫の永徳は織田信長の庇護を受け、安土城などの内部装飾を手がけてその名声を確立した。永徳の孫は、徳川家康の御用絵師となり、江戸狩野派の基盤を確立した。
設問3 永徳の孫で、家康の御用絵師となった画家はだれか。
〔語群〕1狩野元信 2狩野探幽 3狩野山楽 4狩野芳崖
【指摘内容】
徳川家康の没年は1616年です。一方、狩野永徳の孫である狩野探幽が幕府御用絵師になったのは1617年です。つまり、探幽が幕府御用絵師になった時、すでに家康は死去しており、当時は2代将軍徳川秀忠の時代です。したがって、本設問には正解が存在しないことになります。
これらの指摘に対する大学側の回答は、
「入試問題としていずれも妥当性を欠くまでには至らない。」
だったとのことです。
長くなりましたので、明日に続きます。