海外に長期出張していたため間が空いてしまいましたが、京都・大阪・奈良の旅行記をつづけます。
大阪歴史博物館で1日つぶした後は、仁徳天皇の墓と伝えられる大仙陵古墳(大山古墳)に向かいました。最寄り駅で降りて自転車で古墳にたどり着くとそこにはこんな表示がありました。
なんと悩ましい表示でしょう。左右どちらから回っても古墳の正面まで1.4kmだと! とりあえず右から回ってみました。
しかし見えるのは濠と樹木ばかりで、前方後円墳らしいイイ絵が撮れません。とりあえず古墳に隣接する堺市博物館に入ってみると、ここにもボランティアガイドさんがいたので、お話をうかがいながら見学しました。
これは古墳の副葬品です。左端が鍬形石(くわがたいし)の欠けたもの、右端は車輪石(しゃりんせき)といいます。以前に沖縄で貝輪という腕輪を見ましたが、古墳時代にはそれを石で作るようになったのです。さすがに日常生活ではつけられず、あくまでも副葬品です。どちらもめったに出題されませんが、青山学院大では注意です。両方あわせて「碧玉製腕飾り(へきぎょくせいうでかざり)」といって、これは早稲田などでも問われています。「碧玉」を書かせる問題で、立命館大でも出ました。
古墳の副葬品は時期によって変化したことがよく問われます。5世紀ころの中期古墳に多くなった風葬品に武具がありますが、その一つ「短甲(たんこう)」を見てください。
以前に群馬県立歴史博物館で見た短甲は特殊なものでしたが、こちらはよくある短甲です。
中期古墳の副葬品にはほかに須恵器(すえき)もあります。須恵器は朝鮮半島の技術で焼かれた灰色の土器として頻出ですが、受験生の盲点となりがちなのはその時期です。5世紀から作られるようになりました。大阪府には国内最大の須恵器生産の拠点「陶邑窯跡群(すえむらかまあとぐん)」がありました。そこから出土したものがこちらです。
堺は室町時代には自治都市となり、鉄砲の産地にもなっていきます。そのため町のジオラマや火縄銃なども展示されていました。僕にとって盲点だったのは、堺市出身の人物にこのお坊さんがいたことです。誰かわかりますか?
奈良時代、僧尼令に違反しながらも民間布教にはげみ、大仏造立に貢献して大僧正(だいそうじょう)となった行基です。