最近の入試では世界遺産をネタに出題されることが多くなりました。そこで僕もできるだけ世界遺産に行くようにしています。先日は熊野古道を歩いてきました。
準備段階で最初に戸惑ったのは、熊野古道が何本もあることでした。熊野には本宮と新宮と那智大社の三つがあって、それぞれ結構離れた場所にあるんですよ。そこに各方面からアクセスする道が熊野古道というわけです。
たくさん道があるのでどれを歩くべきか悩みました。でもまずは院政期の上皇の熊野詣(くまのもうで)を真似るべきだろうと中辺路(なかへち)を選びました。
平安末期の上皇たちは一生のうちに何度も熊野詣を行いました。その数がすごいです。白河上皇は9回、後白河上皇は34回、後鳥羽上皇は28回。京都からはるばる熊野まで往復1ヵ月もかかるのに! お金と時間とそして相当な信仰心があったのでしょうね。
時間に余裕のない僕は夜行バスを使いました。紀伊田辺駅でバスを乗り換え、滝尻王子で降り、熊野古道館に立ち寄りました。ここでは熊野詣がどんなものだったかをさまざまな資料のレプリカで紹介していました。事前に熊野古道や修験道の本を読んでいたので、多くは知っていることでしたが、やはりモノを目にすると「おおお!」となりました。
藤原宗忠(むねただ)の『中右記(ちゅうゆうき)』です。山川の教科書の院政のところに史料が載ったせいか、だんだん入試で出題されるようになってきました。この宗忠が熊野詣をした時のことを書き残しているのです。
藤原定家も書いています。後鳥羽上皇の熊野詣にお供することを命じられ、途中で風邪を引いたりしてヘロヘロになっていて笑えます。当時は何度も川を渡渉したり、雨で身体が濡れたりしたので仕方ないのでしょうね。
こちらは『一遍上人絵伝』です。各地を遊行した一遍は熊野にも来ました。ここで一遍は重要な経験をしています。一遍は賦算(ふさん)といって念仏札(ねんぶつふだ)を配り歩いていましたが、熊野で一人の僧侶にそれを拒否されたのです。ショックを受けた一遍は、このまま賦算をつづけるか悩みました。するとその夜に熊野の権現があらわれて「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず、その札をくばるべし」と告げたというのです。これは入試でも時宗の特徴として出題される、「信心の有無を問わず往生できる」という教えですね。迷いの吹っ切れた一遍は、この時まで連れていた超一・超二という妻と娘と思われる女性二人を国元に返し、新たなステージに旅立っていったのです。