河合塾の「総合日本史演習(発展)」では、外交史や経済史の講義をおこないました。この授業を受けて、通年授業で誤解していた部分に気づいた人もいるようです。危ないところでしたね。「こうだ!」と思い込んでしまったものって、なかなか自分では気づかなかったりします。僕などは例によってテレビがないために、「スマホ」という言葉を、音声で聞いたことがなく、自己流アクセントで覚えてしまっていたため、なかなかふつうの発音ができずに困っています。先日も、藤沢の授業で自己流発音をして生徒に笑われてしまいました。
今日は、その発展の講座のプリントについて、ふだんのノートとのズレが気になった人からの質問を紹介します。
<Aさん>
このあいだの夏期講習の南浦和の総合日本史発展演習も受けさせていただいたのですがそのときに配布された日中関係史プリントの中では
607小野妹子→煬帝
答礼使 裴世清
608小野妹子
留学生 高向玄理
留学僧 南淵…
とありますがレギュラーの方の3番ぺージには
607小野妹子派遣
608隋の煬帝、裴世清を日本へ…
小野妹子再渡航
となっています。私の書き間違えかもしれないのですが、煬帝と裴世清は607と608どちらで覚えればいいでしょうか?わかりにくい文で申し訳ありません。お願いします
<石黒>
レギュラーのノートはテキストを写してもらったものなので、夏期講習のプリントとは異なる部分もあります。煬帝が裴世清を日本に派遣したのは608年ですが、そのこと自体は重要ではありません。むしろポイントは、小野妹子が煬帝に面会したことと、その際の答礼使が裴世清だったことです。テキストの記述は間違いではないのですが、肝心なのは遣隋使が派遣された年を、600、607、608、614と覚えることなのです。それゆえのまとめが「日中関係史」のプリントというわけです。
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