政治史をある程度学習し終えたら、テーマ史対策をすることをおすすめしています。経済史や外交史は定番なので、過去問をやっていれば目にすると思いますが、交通史などとなると、軽視している受験生もいるようです。実際、先月、河合塾藤沢現役館でおこなった貨幣史・交通史の授業では、苦戦している姿も見られました。
今日はそんな人たちに目を覚ましてもらうべく、2012年立教大2月12日入試で出題された交通史の問題を紹介します。ちなみにもう1つの大問は、沖縄史からの出題でした。冬休みにはこうしたテーマ史にしっかり取り組んで、ぜひ試験会場でニヤリしてください。
derutoko.comでは、貨幣史・交通史は『でる日講義−経済・外交史(近現代)−』で、沖縄・北海道史は『でる日講義−アラカルト−』で講義しています。
2012年立教大2月12日入試(経営ほか) 大問I
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次の文1~5を読み,下記の設問A・Bに答えよ。(編注:[]の部分に下線が施されています)
1.道は人の移動に利用されるのみならず,物や情報の伝達にも利用される。物や情報の移動は経済を動かし,社会や文化の発展にも寄与してきた。わが国において,都市間を結ぶ道路が形成された時期は明確ではないが,少なくとも飛鳥時代には朝廷のある大和と地方を結ぶ道路が存在していたと考えられている。
大化の改新以後,1)[律令国家]の形成に伴って,全国が畿内・七道に行政区分された。畿内は大和,山背,摂津,( イ ),和泉の5カ国,七道は2)[東海道],( ロ )道,北陸道,山陰道,山陽道,南海道,3)[西海道]の7つである。律令の規定によって国・郡・里がおかれ,国を統治する国司が中央政府より派遣された。中央と国府は駅路で結ばれ,官吏が公用で利用した。駅路には約16キロメートルごとに駅家を設ける駅制がしかれ,4)[駅馬]と駅子が配置された。
2.農業や手工業が発達し,分業が進むと物の交換が活発となる。それに伴って地域と都市の交易もまた活発となる。
鎌倉時代中期には,農業にも変化が見られた。それまでの単純な耕地の拡大から,5)[刈敷]などの肥料の普及によって,一定の敷地内でより多くの収穫が得られるようになった。畿内や西国では稲と麦の二毛作が広まり,農村の中に手工業を専門に営む鍛冶・鋳物師・木工細工人なども現れた。荘園や国衙領,交通の要地などでは定期的に市が開かれ,農作物や,都市から6)[行商人]によって運ばれた鉄製の農具などがそこで取引された。代金の決済には主として7)[宋銭]が使われた。また,富裕層の中には8)[高利貸しを営む業者]も現れた。
貨幣経済が広まってくると,京都や鎌倉など都市に住む荘園領主らは多くの貨幣を必要とするようになり,鎌倉時代後期には年貢や公事を貨幣で納付させる( ハ )も始まった。
地域と都市との間で物の移動が活発になるにつれ,交通の整備も進んだ。交通の要地には荘園領主のために年貢の保管や運送,委託販売を行う業者が現れ,遠隔地間の取引には金銭の輸送を手形で代用する仕組みである為替が使われた。都市に住む貴族や武士のもとに様々な物資が集まったことで商業も盛んとなり,有力な貴族や寺院・神社を本所と仰いで( ニ )という同業組合が結成された。
鎌倉幕府は軍事的な目的から東海道を重視し,( ホ )に宿駅を支配させた。宿駅には定期市が立ち,やがて地方都市として繁栄していった。
3.豊臣政権による全国統一の過程で始まった陸上交通の整備は,徳川家康の手に引き継がれた。家康は江戸日本橋を起点として東海道,中山道,日光道中,奥州道中,甲州道中の五街道を重要な幹線と定め,幕府が管理した。五街道以外の主要な街道は( ヘ )街道と呼ばれた。主な( ヘ )街道として,伊勢参宮のための伊勢街道,東海道を経て本州最西端の( ト )宿に至る中国街道,朝廷の勅使が日光東照宮に御幣を捧げるために通った日光例幣使街道などがある。これら主要な街道には宿駅が置かれ,約4キロメートルごとに( チ )が設置された。また,幕府は治安維持などを目的として9)[関所]を設置した。
10)[1601年]には東海道に,翌年には中山道に伝馬制がしかれた。宿駅には大名らが宿泊する本陣・脇本陣や,一般の旅人用の宿泊施設である旅籠,人馬貨物の継ぎ送りを行う問屋場などが設けられ,公儀の書状や荷物を次の宿場まで届けるために必要な11)[人馬の準備]もなされた。
4.北国街道と称される( ヘ )街道は複数ある。12)[中山道の追分宿から日本海側へ延びる街道]もその1つである。この街道は小諸宿より千曲川に沿って西へ延び,真田昌幸によって築城された上田城の13)[城下町]にある上田宿,海津城へ通じる松代道が分岐する矢代宿などを経て善光寺のある善光寺宿へと至る。
善光寺は,7世紀に建立された一光三尊式阿弥陀如来を本尊とする寺院であり,山内にある14)[天台宗]の大勧進と浄土宗の大本願によって護持されている。10世紀後半から15)[11世紀半ば]にかけ,現世の不安から逃れようとして浄土教の信仰が隆盛を極めると,民間僧が全国を遍歴しながら民衆に信仰を広めたことから,善光寺参りが盛んに行なわれるようになった。やがて門前で定期市が開かれるようになり,長野は門前町として当該地域の経済的中心の役割を担うようになった。
さらに北方へ進路をとり,新町宿を過ぎると,街道は平地から山岳路へと変わる。俳諧師16)[小林一茶]生誕の地である柏原宿,17)[野尻湖]を臨む野尻宿を経て越後国関川宿へと進む。ここには関所が設けられ,人物改めや荷改めが厳重に行なわれた。街道は関山宿や城下町の高田宿,戦国時代に越後国を支配した( リ )氏の城砦である春日山城のふもとを経て,春日新田に至る。
5.街道の整備によって人や馬による物の移動は容易となったが,それでも輸送量には限界があるため,大量輸送には船が利用された。菱垣廻船や樽廻船は( ヌ )という江戸から大坂に至る航路を通って物資の輸送にあたった。また,河村瑞賢は出羽から能登,山陰を経て,( ト )から瀬戸内海に入って大坂に至る航路と,陸奥から太平洋岸を経由して安房から江戸に至る航路を開発した。また,河川にはいくつもの河岸が設けられ,年貢米や産物は河岸から河口の港へ,港から海上交通によって大坂へ運ぶ流通網が確立された。
陸上交通や水上交通の整備は商業に大きな影響を与えた。交通が未整備であった時代に,地域による価格差を利用して巨大な富を形成してきた江戸時代初期の18)[商人]は,交通網の整備によって急速に力を失った。17世紀後半になると,商品の仕入れや受託を担う商人の活動が活発になった。彼らは同業者や利害が一致する商人・職人で仲間を結成し,独自の法を制定して営業権を独占した。例えば,19)[江戸には十組問屋,大坂には二十四組問屋]が結成された。当初,幕府は仲間を公式に認めなかったが,18世紀になると20)[運上・冥加]の負担を条件に営業の独占権を公認するようになった。
A.文中の空所( イ )~( ヌ )それぞれにあてはまる適当な語句をしるせ。
B.文中の下線部1)~20)にそれぞれ対応する次の問1)~20)に答えよ。
1).律令制下では公民にさまざまな税が課された。その1つである庸についての説明として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。
a.諸国の産物,絹,糸,綿,鉄,海産物などを朝廷に納めさせた
b.正丁3人から4人に1人の割合で,兵士として徴用した
c.年60日を限度に国司が労役に使用した
d.労働提供の代納物であり,正丁に2丈6尺の布等を出させた
2).(編注:下線部は「東海道」を指す)この地域に位置する国はどれか。次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。
a.近江国 b.甲斐国 c.下野国 d.美濃国
3).(編注:下線部は「西海道」を指す)外交や軍事上の要地であるこの地に置かれ,「遠の朝廷」とも呼ばれた律令政府の出先機関をしるせ。
4).(編注:下線部は「駅馬」を指す)これを利用するための資格を示すもので,官吏が携行した物は何か。その名をしるせ。
5).(編注:下線部は「刈敷」を指す)これの説明として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。
a.刈り取ったアブラナや綿実などから油を搾り取って作る肥料
b.刈り取った草などを地中へ埋めて使う肥料
c.刈り取った草などを焼いてできた灰から作る肥料
d.刈り取った草やわらに家畜の糞尿などを混ぜて腐らせた肥料
6).(編注:下線部は「行商人」を指す)これの説明として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。
a.大原女とは,京都の郊外に住み,主に鮎を売り歩く鵜飼い集団の女性行商人のことをいう
b.振売とは,呼び売りしながら歩く行商人のことをいう
c.棒手振とは,天秤棒で商品を担いで売り歩く行商人のことをいう
d.連雀商人とは,荷物運搬用の道具である連雀を背負っていた行商人のことをいう
7).(編注:下線部は「宋銭」を指す)これを輸入した日宋貿易に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。
a.主な輸出品は金,硫黄,刀剣であった
b.主な輸入品は香料,陶器,茶であった
c.鎌倉時代になると日宋貿易は途絶した
d.平安時代中期に始まり,平清盛が大輪田泊を整備した
8).(編注:下線部は「高利貸しを営む業者」を指す)この業者はどれか。次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。
a.借上 b.義倉 c.問丸 d.馬借
9).街道と関所の組み合わせとして正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。
a.奥州道中−勿来 b.甲州道中−小仏 c.東海道−新居 d.中山道−碓氷
10).(編注:下線部は「1601年」を指す)この年に銀座が設けられた場所はどれか。次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。
a.江戸 b.大坂 c.長崎 d.伏見
11).17世紀半ば頃に定められていた各宿駅に置く人馬の常備数として,正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。
a.甲州道中の宿駅は25人25疋
b.東海道の宿駅は100人100疋
c.中山道の宿駅は40人40疋
d.日光道中および奥州道中の宿駅は25人25疋
12).(編注:下線部は「中山道の追分宿から日本海側へ延びる街道」を指す)この街道に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。
a.海産物や塩を内陸に届ける道としても利用された
b.加賀藩が参勤交代で利用した道であった
c.佐渡で産出された金を江戸に運ぶ役割を担っていた
d.中山道との分岐点である追分宿は上野国の宿場町であった
13).城下町とそこを領有した戦国大名の組み合わせとして正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。
a.一乗谷−朝倉氏 b.鹿児島−島津氏 c.伊予−尼子氏 d.府内−大友氏
14).(編注:下線部は「天台宗」を指す)この宗派に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。
a.円仁と円珍の頃には,この宗派に密教の要素が取り入れられ,天台系の密教は東密と呼ばれた
b.最澄は新しい大乗戒壇の創設を目指したが,抵抗する南都の諸宗に反論するため,『顕戒論』を著した
c.最澄は最後の遣唐使とともに入唐し,天台の教えを受けた
d.10世紀後半頃には円仁と円珍の門徒が対立し,園城寺の円仁派と延暦寺の円珍派に分かれていた
15).(編注:下線部は「11世紀半ば」を指す)この頃を代表する平等院に関する説明として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。
a.鳳凰堂の壁や扉には来迎図が描かれている
b.この寺院は,元々は別荘としてつくられた
c.鳳凰堂を建てたのは藤原伊周である
d.鳳凰堂にある『平等院鳳凰堂阿弥陀如来像』の作者は定朝である
16).(編注:下線部は「小林一茶」を指す)この人物は『おらが春』を発表したことで有名である。その作品と同じく,江戸時代後期に発表された作品はどれか。次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。
a.奥の細道 b.世間胸算用 c.曽根崎心中 d.南総里見八犬伝
17).(編注:下線部は「野尻湖」を指す)この場所に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。
a.この場所でナウマンゾウの牙とオオツノジカの角などが発掘された
b.この場所で発掘されたナウマンゾウとオオツノジカの化石は完新世のものと判明した
c.この場所は,獲物解体場であったとみられている
d.この場所の同じ地層から,ナウマンゾウの化石のほか,石器と骨器が見つかり,ナウマンゾウと人類が共存していたことが証明された
18).商人とその商人が活動の拠点としていた地域の組み合わせとして正しいのはどれか。次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。
a.今井宗薫−摂津平野 b.末次平蔵−敦賀 c.末吉孫左衛門−博多 d.角倉了以−京都
19).(編注:下線部は「江戸には十組問屋,大坂には二十四組問屋」を指す)これらに関する説明として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。
a.十組問屋が結成されたのは18世紀半ばであった
b.二十四組問屋は,はじめは10組で結成された
c.十組問屋には荷積みの問屋が,二十四組問屋には荷受けの問屋がそれぞれ加盟していた
d.十組問屋は樽廻船を支配下においた
20).(編注:下線部は「運上・冥加」を指す)これに関する説明として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選び,その記号をマークせよ。
a.運上は,税率が一定の営業税で,原則として物納であった
b.運上も冥加も,小物成の一種である
c.冥加は,時代が進むにつれて運上との違いがなくなった
d.冥加は,もともと商工業者の営業の公認保護に対する献金であった
【解答】
A.
イ 河内 ロ 東山 ハ 銭納〔代銭納〕 ニ 座 ホ 守護 ヘ 脇 ト 下関 チ 一里塚 リ 上杉〔長尾〕 ヌ 南海路
B.
1).d 2).b 3).大宰府 4).駅鈴 5).b 6).a 7).c 8).a 9).a 10).d 11).c 12).d 13).c 14).b 15).c 16).d 17).b 18).d 19).b 20).a
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