大人のでるとこユーザーからのご質問

derutoko.com の教材は、大学入試対策として制作したものばかりですが、受験をしない社会人の方にもお使いいただいています。今日は、そのお一人であるTさんからの質問メールを紹介します。『日本史事始』をお使いの方は、ぜひお読みください。さすが社会人だけあって、問題・解説の読み込み方が丁寧です。

<Tさん>
「つな近」では近現代の基礎を楽しく学べました。今まで高いと思っていたハードルがぐっと低くなった気がします。学び続ける自信も生まれました。
ところで、「日本史事始」について質問させてください。受験問題なのだから得点できればよいと割り切ればよいのですが、受験生でないので細かな点も気になってしまいます。とんでもない勘違いでしたらお許しください。
問題番号14遣隋使・遣唐使の最後のパラグラフ
疑問点(1)
鑑真の渡海の試みは、753年までの約10年間に5回失敗に終わり、753年の6回目でようやく成功したと理解しているのですが、問題文では時間的前後関係が全く逆のような気がします。
疑問点(2)
解説に、「鑑真に直接会って来日を要請したのは栄叡と普照」とありますが、これを前提にすると、阿倍仲麻呂と藤原清河は直接ではなく誰かを介して要請したということでしょうか? そうだとすると今度は「揚州の延光寺で鑑真に来日の要請をした」(浜島書店・新詳日本史より)と矛盾する気がします。私の推測ですが、最初に直接要請したのは栄叡と普照であったが、直接要請した者は藤原清河など他にもいたということではないでしょうか?神経質すぎる質問で誠に申し訳ありません。

<石黒>
(1)おっしゃる通り、たしかに矛盾した説明です。P.24下から2行目の「その後」を除けば正しい文になるかと思います。

(2)T様の「推測」の通りです。最初に鑑真に渡日を要請したのは、733年の遣唐使に従って入唐した栄叡・普照です。鑑真に会ったの742年のことでした。その後、ご存じの通りおよそ10年間にわたって5度も渡日に失敗するのですが、その間も、栄叡らは懇願していたようです。やがて栄叡も没し、752年の遣唐大使藤原清河らが重ねて渡日を要請しました。解説では、そのあたりの経緯を端折って説明しています。これは、大学入試対策として「栄叡・普照による要請」を重視したいがためです。あしからずご了承ください。

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