折りたたみ自転車でまわった佐賀・長崎(5)

いよいよ最終日です。まず原爆資料館に行きました。
原爆投下前後の様子から、戦後の核競争までたくさんの展示がされており、生き残った人たちの証言なども聞くことができました。そのむごたらしさには言葉もありません。今までに写真や映像や文章などで知っていたことでも、こうして現地で目の前に大きく見せつけられると、圧倒されるものがあります。

今さらながら「なんてことだ」と思わされたことが二つありました。一つはポツダム会談の前後の状況です。

1945年7月16日 アメリカが初の核実験
1945年7月17日 米英ソの3首脳によるポツダム会談
1945年7月18日 日本、和平調停案をソ連に提出

アメリカとしては、核兵器が完成したことにより、いよいよ日本を降伏させられるという段階に達し、いっぽうの日本は中立条約があるとはいえ、連合国側に加担していたソ連に調停をたのむという状況にあったわけです。この日付が虚しいことこのうえなしです。ポツダム宣言では降伏しなければ「迅速且完全ナル壊滅アルノミトス」と、核兵器の使用をほのめかされていたにもかかわらず黙殺し、そして8月6日のヒロシマを迎えるわけです。

もう一つうなだれたのは、長崎に原爆を投下した経緯です。8月9日、原爆投下の第一目標は小倉でした。しかし、焼夷弾の煙で視界が効かず、第二目標の長崎に移動したものの雲で視界不良だったのです。燃料がもたないので帰投しようとしたところ、雲が一瞬切れたため、すかさず投下したのです。アメリカ人のキリスト教への信仰心がどれほどのものか知りませんが、すぐそばにあったのが浦上天主堂でした。

手前の石像とレンガは当時のなごりです。後ろの新しい建物が現在の天主堂です。島原の乱からおよそ300年後、こんな形の惨劇に見舞われることになろうとは……。ヒロシマからわずか3日後のナガサキというのは、どう考えてもよけいな一発でした。

資料館を出た後、すぐ近くの原爆落下中心碑と浦上天主堂を回りました。その後も街のあちこちで原爆の傷跡を見ながら、長崎造船所史料館に行ってみました。

興味をそそる展示物はあまりなかったのですが、日本最大の造船所であるここが、どれほど国家と結びついていたのかはわかりました。戦艦武蔵はここで作られています。太平洋戦争の際、1944年10月にフィリピンの近くで行われたレイテ沖海戦で沈没した戦艦です。

そして最後の最後に出島和蘭商館跡に行きました。出島といっても、現在は完全に陸地に囲まれています。ここもかなり復元が進んでいて、各建物の中には実にさまざまな物が展示されていました。ちょっとした体験コーナーがあって、係のおじさんから長崎についての話をたくさん聞くことができました。「長崎は一時、外国だったんだ」という表現はなかなかおもしろかったです。戦国大名の大村純忠が、長崎をイエズス会に寄進したからというわけです。

これはオランダ商館の部屋の一つで、クリスマスの祝宴を再現しています。

ところでこの日、もっとも衝撃だったのは、河合塾日本史科の先生がお亡くなりになったことを知ったことでした。ちょうど原爆資料館を見終えて地上に出たところで、携帯メールを見て知りました。入試問題についてかなり詳しい方だったので、非常に残念に感じます。