先日、ある校舎で模試では点が取れるのに、早稲田の過去問では取れないという人がいました。このブログでも何度も話題にしている、模試のレベルにしか到達していないタイプですね。授業内容をもっと吸収してもらいたいところです。
一方、その模試の文化史が弱いという人もいました。河合塾の生徒だったので、ちょうど良いと思って、9月18日と25日に行われる「差がつく文化史」という一日完結講座をお勧めしました。ところが別の予備校の模試とかぶっていて受けられないというのです。なんてことでしょう。模試なんて河合塾のだけ受けていれば十分だと思うのですが。
というわけで、明日、9月18日は河合塾南浦和現役館で文化史の講座があります。180分しかないので仏教史を扱うだけですが、文化史が弱くなりがちな河合塾生にとっては貴重な時間となるでしょう。これで大学入試レベルの仏教史を知って、他の分野の学習水準を引き上げましょう。理解度が入試レベルに達しないかぎり、本番での高得点はあり得ないのです。
そして、本気で文化史対策を求める人には『でる日講義−とことん文化史−』を推奨しています。しかし、ライブ授業を望む声が強いのも事実です。そこで、「第4回日本史道場」として1日完結の文化史対策講座を行うことにしました。受験生が独学では理解しにくい「思想史」を中心に「教育」・「学問」を講義します。美術の図版問題対策も企画中です。何しろ『聴くだけ日本史−美術史編−』では音声チェックはできても、図版チェックができませんからね。受講者アンケートで好評な「ハーフサイズ模試」も行う予定です。ほかにもオイシイ企画を構想しているところです。
日にちは11月6日(日曜)。場所は横浜。受講料は1万円になる見込みです。
詳細は追ってお知らせしますが、今日はこの講座で扱うテーマの問題を一つ解いてみてください。テキストには、受講後に解く問題を15題ほど入れるつもりですが、そのセレクトの際に漏れた問題です。明治大学の中で一番解きやすい商学部の問題とはいえ、結構手強いのではないでしょうか。リード文中に選択肢があるので、携帯でも解きやすいです。
問 次の文章の中で,(a)~(e)に入る最も適切な語句を①~⑤から選び,マークしなさい。また,(1)~(5)の空欄に入る最も適切な語句を解答欄に漢字で記入しなさい。
1700年代なかごろから,それまでそれぞれの系統において主張される傾向にあった儒教・仏教などの東洋的思想を総体的にとらえ直したり,自然科学との関連において新しい学説を提示したりする,開明的思想や合理主義的学問方法がおこってきた。
富永仲基(1715~1746)は,1724年に三宅石庵を学主として建てられ1726年には準官学とされていた大坂町人出資の学塾[ (1) ]に,儒学を学んだ。仲基の父も[ (1) ]ヘの出資者のひとりであった。のちに仲基は,その主著(a)〔①柳子新論 ②自然真営道 ③新論 ④出定後語 ⑤翁問答〕(1745年刊行)のなかで,仏教思想を発達史的に体系づけ,経典も釈迦一人の説いたものとせず,原始仏教より大乗仏教諸派の成立に至る歴史的発展性のなかで,付加されてきたと論証した。
仲基は儒教や神道についても,この研究・考察方法を適用した。また,儒教・仏教・神道のいずれも,「いまの世の日本」において実行可能な教えや道でなければならないとする[ (2) ]の道を,倫理的立場から提唱した。
播磨国の出身で大坂の豪商升屋本家の番頭をつとめた[ (3) ](1748~1821)は,はじめ大名貸の不振で苦境に陥っていた主家の再興に力を注いだ。ついで,仙台藩の買米・回米制度を一手に握り同藩の財政を再建し,のちには,東は陸奥国仙台藩から西は豊後国岡藩に至る全国数十藩の蔵元・掛屋として,諸藩の財政改革を支援し成功を収めさせた。
[ (3) ]も,[ (1) ]で儒学を学んだが,1820年に完成した著書『夢の代』のなかでは,地動説を支持し,神話と歴史の分離,経済の自由(需給関係に基づく物価の決定)などを主張した。また,徹底した唯物論ともいえる[ (4) ]論を説き,近代合理主義思想の先駆けともいえる思想家でもあった。
豊後国国東郡の医者(b)〔①中川淳庵 ②華岡青洲 ③野呂元丈 ④三浦梅園 ⑤桂川甫周〕(1723~1789)は,儒学と洋学・自然科学の知識を合わせた自然哲学である「条理(学)」を提唱し,その哲学原理をあらわした『玄語』,道徳説の『敢語』,グレシャムの法則(悪貨は良貨を駆逐する)的思想を語った貨幣論・物価論の『価原』などを著した。(b)は,ほとんど豊後にあって独学により自らの思想・哲学を確立したが,自然科学や洋学の知識は,主に長崎への2回の旅行における通詞たちとの交流や,同じ豊後国出身の友人であり天文学者の(c)〔①渋川春海 ②麻田剛立 ③高橋景保 ④西川如見 ⑤伊能忠敬〕(1734~1799)から得たものであった。
(c)は,豊後国杵築藩の儒者綾部絅斎の4男として生まれたが,幼時より天文を好み,1772年に大坂に出奔し,医者を生業としながら暦学の研究に没頭した。みずから望遠鏡を作成し観測を続けてつくった暦である『時中法』は,官暦よりも日食を的中させたので,その名声が上がった。(c)の門下には[ (3) ]や,のちに幕府天文方で寛政暦を完成させた高橋至時・間重富らがいる。
また,1700年代末には,それまでの儒学における農本思想的な経世論(熊沢蕃山,新井白石,荻生徂徠らの治国安民のための献策)が,幕藩体制の直面している色々な矛盾に対応しきれないとして,商品流通や対外交易を推進・発展させようとする重商主義的な政策を提言する経世家があらわれてきた。
[ (5) ](1743~1820)は,江戸で和算・天文学・地理学などを学んで私塾を開き,航海術も修めた。[ (5) ]はロシアの南下を契機とする北方問題に強い関心をもち,これを出発点として対外交易を重んじる重商主義的国営貿易を主張した。また,その主張の背景には天明の飢饉を目の当たりにした奥羽旅行の経験があり,開国・交易による富国政策の必要性を痛感していたからでもあった。
[ (5) ]は,『西域物語』(1798年成立)で,西洋諸国の国勢・風俗を記し,航海・交易の必要性を説き,また,同年に完成した(d)〔①経済要録 ②経世秘策 ③宇内混同秘策 ④統道真伝 ⑤漂巽紀略〕では,開国交易・北方開発などによる危機(飢饉など)の打開を提案した。これらの著作の特色は,「国」というものを日本全体としてとらえていることであり,ある意味で当時の鎖国制度を否定するものであり,先見性にすぐれたものであった。
一方,丹後国宮津藩の家老の長子として生まれた海保青陵(1755~1817)は,藩の儒官であったが,のちに辞して京都に出,1789年以降は,江戸と京都を中心として各地に旅行し,その見聞をもとに,実証的な経世論を確立した。海保青陵は,その集大成といえる著書(e)〔①商売往来 ②庭訓往来 ③町人嚢 ④経済録拾遺 ⑤稽古談〕(1813年刊行)で,商人の智恵に学んで利を得る方法を考えることの必要性を説き,財政難の大藩の武士らに経世策を授けた。具体的には藩専売の採用や武士の家中工業を挙げたが,一藩内での重商主義政策の推奨にとどまった。
解答は続きのページにあります。
正解 (a)④ (b)④ (c)② (d)② (e)⑤ (1)懐徳堂 (2)誠 (3)山片蟠桃 (4)無鬼(無神) (5)本多利明
「第4回日本史道場」は、こうした問題が解けるようになる講座です。
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